中世の街並みが美しい理由

乾 正雄

色彩研、Vol.53 No.2 2006
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3 中世の街並み


 中世になって、屋根工法が発達し、石や木の使い方があかぬけてくると、個々の建物の様式が確立し、ひいては整然とした街並みが出現したと見るべきであろう。そのとき町は、色彩的に見ても、十分に秩序のある配色をもったものとして現れた。

 ここまで「様式」という言葉は、建築用語でもあるので、説明なく使ってきたが、念のため、美術一般の表現に関して、ゲーテの述べたところを借りておく。ゲーテによると、創造のもっともプリミティブな段階が「自然の単純な模倣」、次の段階が対象を主観的、個性的にとらえなおす「手法」、最後がものの本質を目に見え、手でとらえられる形にまで高める「様式」だという。簡単にいうと、大昔の洞窟住居や樹上住居は「自然の単純な模倣」、家屋文鏡の住居は「手法」、ポンペイも瓦以外は街並みの均一に寄与しないので「手法」、西欧中世の木骨住宅や江戸時代の和風住宅のつくる街並みに至って「様式」と認められる。

 本稿の中世は、発達のおくれた地域では近世を含む、または近世にずれこむことは仕方がない。日本の街並みのもっともよく整ったのは江戸中期以後であろうし、国内で西欧化の進展がおそかった地方の町村は明治中期に至ってもなお中世の姿をとどめていた。一方、ヨーロッパでは、概して様式の転換をいそぐ傾向があり、それはとくに近世以後に著しいが、ヨーロッパでも中世の動きは比較的ゆったりしていた。

 中世の街並みのよさは均質かつ統一的な様式にあるのだから、一つの町は一つの様式にこだわる。それは大事なポイントだった。日本では様式の変化幅はわずかだが、たとえば京都祇園新橋の簾の目立つ茶屋、倉敷の白壁とナマコ壁の蔵造り、吹屋のベンガラ屋根、川越の黒づくめの蔵造りなどは、どれも独自性が強く、一つの様式だけでよくまとまる一方、どれも他の様式と混ざることを嫌う。

 ヨーロッパだと、ストラスブールの木骨住宅の白い壁(図4)、インスブルックのカラフルな漆喰壁(図5)、シュタイン・アム・ラインの絵の描かれた漆喰壁(図6)、ベルンのベルン産砂岩の壁(図7)、ヘントの飾りたてた砂岩の破風壁(図8)などを挙げてみても、日本におけるよりはるかに変化に富んでいる。これらは、以下の説明の都合で、ヨーロッパの中心部であるブルゴーニュ公国内またはその近辺から壁の例ばかりを選んだ。ヨーロッパでは、同国を中心として言語圏、文化圏が分かれるので、この辺では至近距離にある町相互がまったく異なる様式をもつこともめずらしくない。





図4 ストラスブールの街並み




図5 インスブルックの街並み




図6 シュタイン・アム・ラインの街並み




図7 ベルンの街並み




図8 ヘントの街並み


 図4のような木骨住宅は、とくにドイツ語圏に多い。これの特徴は、英語のハーフティンバードハウスがうまく説明している。骨格は木造で、壁の隙間に多くは漆喰、まれに石や煉瓦などを詰める、だから半木造だというのである。当初は木は無塗装、漆喰は白かクリームだったと思われるが、まず腐食を防ぐための木の塗装がはじまり、15世紀ごろからは、地域によって漆喰の彩色、または漆喰に絵を描くことが行われるようになった。

 今日、壁を図4のように白く残すか、または図5のようにカラフルにするかは、町の条例次第である。ストラスブールでは歴史的な急所にかぎって白ときめられている。一方、インスブルックはカラー化で知られるが、デューラーの15世紀末の版画によると漆喰壁は白のようである (図9)。つまり中世初期は今のようにカラフルではなかった。厳密にいえば、今後の再塗装でも歴史をどこまで遡るべきかはむずかしい問題になる。シュタイン・アム・ラインの中世の壁画となると、町の小ささに比して壁画のウエイトが大きく、これを認めるほかはないように思える。この壁画の利点は、色のあばれが少なく、様式の一様性がほとんど損なわれていないところにあろう。



図9 デューラーインスブルック展望


 図7と図8は石造建築の例である。石造建築では石を選択した時点で色もきまってしまう。図7のベルンは屋根の棟側を見せる街並みだが、ヨーロッパではどちらかといえば少数派だ。図8のヘントは屋根の妻側を見せる街並みで、異種の石を装飾に使って破風全体をにぎやかに飾りたてている。このタイプの街並みはハンザ同盟期の名残で、ベネルックス3国から北ドイツにかけて際立って多い。

 図4から図8の5枚の写真を見比べると次のことがいえる。様式の一様性が単純に意図された例は図4と図7だけである。図6はやや特殊な例だが、依然として一様性は保たれている。

 それらに対して図8のヘントは、破風の一つ一つに個性が強いが、その個性は全体の調和をかき乱すほどは強くない。どの一つも際立ちすぎず、霞みすぎずである。音楽にたとえれば、家々の合唱を聞くようだ。私は、中世、ネーデルランドに流行ったポリフォニー(多声音楽)とのアナロジーを想定するのがわかりやすいと考えている。

 図5のインスブルックについても同じような考察が可能である。クレーの1932年の抽象絵画に「ポリフォニー」と題する作があるが(図10) 、じつは、この絵は当時の街並みから発想したもののようだ。上方に青が多いのは青空らしいし、左端と下方に緑が多いのは樹木かもしれない、水面かもしれない。絵の中心の小さい青い四角が透視図の消点と気がつくと(クレーはときに絵の見方のヒントを絵のなかに示すことがある)、左右の淡い暖色の家並みは端部が手前で大きく、遠方の消点に向かって最小になる。当時ポリフォニーという語は今日のように一般的ではなかったが、音楽に詳しかったクレーは、際立ちすぎず霞みすぎずの、類似のトーンをもつ家々の合唱をポリフォニーと感じた、とまずこういってまちがいはないであろう。



図10 クレー「ポリフォニー」


4 近世以後の街並み

 長い中世が終わり、都市の近代化、現代化がはじまると、街の姿かたちはくずれはじめる。西欧では、まず様式の混乱がおこった。19世紀末のウィーンのリングシュトラーセの建設がいい例だろうが、そこに並んだのはギリシャ、ゴシック、ルネッサンス、バロックなど(正確を期すならすべてに「ネオ (新) 」という接頭語をつけるべきだが)各種様式のビルたちだった。ときに「リング様式」と戯称されるが、多くの様式の混在する状態をさす様式名など元々あるはずがない。同じころ、産業革命を経てビジネスの一大中心地となったロンドンでは、近代化一歩手前の、やはり様式的にはさまざまなビル群が立ち並んだ。ほどなく、それらはもはや様式云々とは無縁の、鉄とガラスとコンクリートから成る近代ビルと化す。

 日本には、明治維新以後、ヨーロッパ諸国の建物が堰を切ったように流れ込んだ。第2次大戦後はとりわけアメリカ仕込みの巨大ビルが増えている。現代の大抵の日本人はいまさらビルを西洋産とは見ないだろうが、ビルの出自を問えば、うたがいなく西洋産であることは、洋服の西洋産と同じくらい確かなことだ。そして、中世の町は、ヨーロッパでは建物の歴史の連続性の故に今でもれっきとした市民権をもっているのに対して、日本では和服が洋服に追いやられたのに似て、かぎられた地点に見本市のごとく残っているにすぎない。

 20世紀の後半に入ると、巨大ビルの建設はさらに世界中の後進国に広がる。今日のビルは、言語における英語のごとく世界を風靡している。しかし、こうしたビルのつくる街並みには、一様性に通じる統一あるまとまりはこれっぱかしもない。あるとすれば、わるい意味の画一性だけだ。

 今一つ、20世紀のあいだにいちじるしくすすんだものに商業主義の都市支配がある。商業地でとくに著しいことだが、看板や広告などの類(連れてサイン類も)が、街並みのなかで、ビルと比べてどちらが主でどちらが従かわからないほどに広く視界を覆っている。これらでは、とりわけ色彩の役割が増しており、原色の多いことでも、色数の多いことでも、過去に類例を見ない。(以下省略)

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