中世の街並みが美しい理由

乾 正雄

色彩研、Vol.53 No.2 2006
上  



1 色彩は街並み美醜判断のキー


 街並みは、洋の東西を問わず中世のものがもっとも美しい。その事実は、観光旅行に明け暮れる現代人ならば、自覚はしていなくても気がついているであろう。中世は今、適度に古くなったから美しく見えるのだろうか。ある種の中世には今、絶滅種寸前の貴重さがあるから、美しいといわなくてはならないのだろうか。これらの設問にはうがった一面はあるものの、私は正しい説明ではないと考える。

 簡単にいうと、中世の都市では一つの模範的建築様式が定まり、その定まった「様式」をもつ建物たちの集合が達成された。それ故に中世の街並みは美しいというべきである。本稿はそこをもっとていねいに解きあかすことを目的とするが、ここでは論理の説得性よりは、実例写真の絵解きに重きをおいて説明してゆきたい。

 「様式」のなかには色彩も含まれる。色彩はあまり目立たないが、材料に従属してきまることが多く、様式の表面に現れる。色彩は、様式のなかにぴったりはまっているかぎり美しさを損なうことはないが、単独であばれだすと往々、醜くなる。




2 古代の街並み


 人類のつくった町が古代に美しかったかどうかはよくわからないが、建材もろくにそろわなかったほどの大昔、街並みが整っていたとはちょっと考えにくい。

 ローマ帝国の商業都市、人口約25,000人のポンペイを例とすると、この町は西暦79年のヴェスーヴィオ火山の大噴火によって完全に灰のなかに埋まってしまったので、石や煉瓦などの不燃材料が古代のままに残った。発掘して見ると建築の方法の多様性、もっとはっきりいえば雑多性が目立つ。

 たとえば、モルタルを一切使わない単なる石積みの巨大ブロックがあるかと思うと、モルタルで接着させた不規則な形のトゥファ(多孔質の石灰華)または火山岩のブロックがある。対角線状に積まれて装飾的パターンをつくるトゥファまたは石灰岩の小ブロックがあるかと思うと、三角錐の煉瓦(先端が壁の内側にくる)の貼られた壁がある。壁は大理石貼りやプラスター塗装のこともある。塗装の顔料をしらべてみると、いわゆる「ポンペイの赤」が最多だが、他の色相も少なくない。均一な様式の確立以前の状態であったことは明らかだ。

 現代、ポンペイを訪ねると、廃墟独特の美しさが目に入り、雑多性は見えにくい。私の考えでは、ポンペイは古代の盛時よりも廃墟化した現代(図1)のほうが美しい。。




図1 ポンペイ(撮影 瀧 彩子)



 ポンペイの近くの、より小さな町エルコラーノも同じ大噴火で壊滅したが、ポンペイが降灰で燃え尽きてしまったのに対し、エルコラーノでは木構造が凝固した泥の殻のなかに残ったので、その細部まで知ることができる。図2の住宅は、中世の木骨住宅を彷彿とする木枠が印象的だが、この1軒と建築の方法が同種のものはほかにはない。やはり様式が確立していないのである。




図2 エルコラーノ


 古代の町は貧富の差が著しい。ひとにぎりの権力者の住まいは立派であっても、庶民たちの住まいのつぶがそろって、まとまった街並みを形成したことはなかったらしい。

 北ヨーロッパや日本ではだいぶおくれて古代がきた。奈良県佐味田宝塚古墳は4世紀ごろのものだが、そこで出土した家屋文鏡に彫られている四棟の建物は当時の日本の住居だと考えられている。図3は見やすいように四建物を同一地表面に並べ替えた。




図3 家屋文鏡の家々


 それらは、左から竪穴住居、穀倉、貴人の住む高床住居、平地住居などと見るのがふつうの解釈である。当時は支配層の住まいがこの程度だった。すべてが木構造で多分色彩は少なかったろうから、ある種の統一はあったろうが、それが庶民の家にも通じるものだったとはちょっと考えられない。

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