吉武研に入りそこなったの記

乾 正雄



 卒論の研究室探しをしていた4 年生のはじめごろのことである。私は計画か環境かと思っていたのだが、どこからか聞こえてきたのは「吉武研は今年は卒論生はあまり歓迎しない」との噂だった。あとから考えれば、吉武研に行きたかっただれかが流したデマにすぎなかったろうが、私はそれに簡単にひっかかった。あっさり小木曽研に決めてしまったのである。


 吉武研が計画系の本流であるのに比べ、小木曽研の専門は照明と色彩だから、環境系のなかでも傍流だ。弱小研究室といっては小木曽先生に失礼ながら、専門分野に必要な人数からいっても、小さくあるべき研究室だった。それで損をしたことは別になかったが、「小部屋の悲哀」などという口実でよく飲んでいた。小木曽先生とは研究室でお会いしたよりも、ポルト (正門前のレストラン) でビールを飲みながらお話したことの方が多かったろう。小さい研究室ならではの、そしてそこにふさわしい先生あっての楽しみだった。


 幸い、小木曽先生と吉武先生は親しかったし、両先生とも互いに認め合うところがあったので、その後、予期しなかったことだが、吉武先生の薫陶を受ける機会は少なくなかった。方法論がわからなくて、吉武先生をお訪ねしたこともある。先生は、環境の研究にも「使われ方の研究」の方法は使える、たとえば、住宅の西側にすだれが垂らされる様子を観察記録すれば、日射量を測らなくても西日の厳しさが推定できるだろう、とおっしゃった。ブリティッシュ・スタンダードの建築設計用色票(1955年版) は、先生が日本に紹介されたものだが、なぜか吉武研ではない新米もその一本を恵与される幸運に浴した。


 吉武研の精鋭たちからも次々と指導を受けた。色彩研究会で伊藤さんと長倉さんを知ったのが手始めで、学校建築の仕事では太田さん、次いで船越さんにも接した。一方、栗原さんや守屋さんとは、ある年齢に達してから親しくなった。これらの方々は、なぜかみな私より数年年長で、ほぼ同世代だ。吉武研の全盛期!といったら、ほかの世代からクレイムがつくだろうが。 小さい研究室で孤独を楽しみながら、ときに計画の本流である大研究室の先輩から学ぶというのが、当時の私の生活スタイルだった。ただし、もし吉武研に所属していたら、先輩方はもっと厳しかったに相違なく、私のような身勝手な人間は生息できなかったろう、と私は今も本気でそう思う。


 吉武先生との縁は、その後も長くつづいた。1980年代のはじめ、ドイツ学術振興会でドイツ・オペラの総監督、ゲッツ・フリードリヒの講演会があったときだ。会ははじまっていて満員だったが、私の隣席が空いていた。と、真っ暗ななかを遅れてきた吉武先生が飛びこむようにそこに座られたのである。考えてみれば、第二国立劇場の建設にかかわっていた先生がその場にいらしたことは不思議ではないのだが、そのときはびっくりした。暗さに慣れていた私の目には先生だとわかったけれども、講演中でご挨拶もできない。私にはなんとも欲求不満な一時だった。これは単なる偶然だろうが、休憩時に先生は「ぼくはこういう出来事を単なる偶然とは思わないのですよ」とおっしゃった。こういうなにげない言葉で「お前とは縁があるなあ」ということを、先生なりに温かく表現されたのだと思う。


 吉武先生には、晩年は人間・環境学会にいろいろ関与していただき、私を含むそこのメンバーたちは、一度ならず吉武家でのパーティーに招かれた。なにかの雑談のなかで、先生が「人間にとって、死ぬことは大事なことです」とおっしゃっていたのが忘れられない。