昔の東京の風景はモノクロ画像みたいなものだった

乾 正雄



 ときどき意図的に昔の東京の色を思いだそうとするのだが、色褪せてほとんど白黒に近い映像しか浮かばない。ぼくはかろうじて戦前・戦中の東京を知っているのだから、頭のなかだけにしろ昔の東京の色彩を再現できれば、大きな職業的財産だなどと虫のいいことを考えるのだが、それがうまくいかないのである。


 一口にいえば、今と比べて町には極度に色が乏しかった。住宅地でいえば、銀ねずの瓦、漆喰の白い壁、下見板張りの壁、石の門柱と木の門扉、アスファルトの道路、黒ずんだ木塀や事実黒く塗られた塀、大谷石の石垣、木の電信柱などと並べてみると、白、黒、グレイのほかは、わずかに木肌色が目立つぐらいだった。商店街まで出れば、インテリアが外部に露出し、商品が見え、看板や広告が加わるから、もう少し色があったろうが、当時の屋号は木板に墨書がふつうだったし、お知らせは白紙にやはり墨で書いたのだから、色があるとはいえ知れていた。乗物も、自動車は黒、自転車もリヤカーも黒、大八車は木製だから木肌色、わずかに都電と都バスが西欧風に彩色されていた。子どもが毎日のように見る風景はそこまでだった。


 ぼくのうちは小石川区丸山町の坂道の途中にあって、父は坂を下りた氷川下から東京駅までバス通勤をしていた。その、うっすらと青いバスの色の記憶が鮮明なのは、父を迎えに行ったことがあったのと、都バスの色は戦後しばらくそのままだったので記憶の更新が可能だったせいだと思う。


 大塚仲町に大きな消防署があり、真っ赤な消防自動車が数台並んでいたのは特別に強い記憶として残っている。消防車が機能的に赤い必要があるかどうかは今でもよくわからないが、その赤は町の色の無さと強烈なコントラストをなしていた。ただし、この消防署も戦後通りかかって記憶を改めている。


 そんな子どもに、たった一回きりの、しかし忘れることのできない出来事があった。昭和17年4 月18日、東京初空襲の日である。昼頃、学校帰りの小学2 年生はうちのそばの坂の上にさしかかっていた。そのとき道路にほぼ直交して、真上やや前方の超低空を巨大な飛行機が通過した。見たことのない低さだった。エンジンの音が、ガッガッガッときれぎれに響いたとおぼえているのはなぜだろう。グレイの機体にアメリカ軍のマークが見えた。星を包むくすんだ青丸がはっきり記憶に残っている。体格のよさそうな乗員の顔も見えた。


 東京の上空に米軍機が現れることは子どもの想像外であり、そのときは日本の飛行機ではないらしいとびっくりしてうちへとんで帰ったことだろう。やがて、それが米軍による東京初空襲だったことは明らかになった。ぼく以外のうちの家族はだれもこの日の米軍機を見ていなかった。


 最近になって、その飛行機を見たという吉村昭氏の随筆 (『東京の戦争』筑摩書房2001年刊) と当日の爆撃機の経路を調査した半藤一利氏の報告 (文芸春秋2002年5 月号) を知った。その日東京に飛来したB25 爆撃機は6 機でばらばらに飛んでおり、うちのもっともそばを飛んだのは、隊長のドゥーリトル中佐機である。その操縦席は左側とのことだから、ぼくの見た乗員は隊長その人だったらしい。ただし、アメリカ空軍のマークはその後テレビでいやというほど見せられているから、記憶がどう変形したかはわからない。また吉村氏のいう機体の迷彩には自信がないし、とくに乗員のオレンジ色のマフラーにはまったくおぼえがない。ぼくの見たドゥーリトル機は北から南に飛んでおり、半藤氏の経路図とは合わないが、同機が真っ直ぐではなく少しジグザグに飛んだとすることは許されるのではないか、と素人は考える。うわさには聞いていたが、当日機銃掃射の犠牲になった児童がいたということも確認した。ぼくの場合も、もし機が道路に平行して後方から飛んできたら撃たれた可能性があったということか。


 東京初空襲はなんと62年前の話、ぼくの経験した唯一度の空襲だった。そんな昔の東京の記憶とは、白黒グレーに木肌色が混ざった地色に、あっ! そういえば赤があった、あっ! あのとき見たのは青ではないか、という程度のもののようだ。遠い過去の風景は基本的にモノクロだ。そのころクレヨンや絵の具はあっても、プラスチックはまだなく、カラー塗装は高価についた。写真も映画も白黒だったし、テレビやパソコンは存在すらしなかった。色がついているのは大事な小物だけ、町には当然のこと、色がなかった。


 写真や映画が白黒だと、それらを見すぎることにより白黒画像が強化される。ぼくは4 年生の夏から、予想される大空襲を避けるため、泣く泣く学童疎開で鳴子温泉に行かされたが、当時の白黒の集合写真はどれも暗い時代にぴったりだ。生活のなかに色彩なんかこれっぱかしもなかったかのように思いこんでいたものだが、最近、鳴子を再訪して緑の山並みと虹を見てあっと思った。こんな虹を見て暮らしていたのをすっかり忘れていた。宿の主人に聞いても、虹はよく出る土地柄とのことだった。夢に色がついてないと人がよくいうのも、色が印象的でない夢の場合、きっと色は目がさめてから風化するのだろう。


 美智子妃のイメージは白黒、雅子妃のイメージはカラー、これはぼくには定着した映像だ。美智子妃のはじめての宮中行きは普及期の白黒テレビで放映されたが、今となっては、ぼくが生まれる前の古い映画「会議は踊る」の「ただ一度、またとなーい」のシーンみたいなもの、戦後がひと落ち着きしたころだった。一方、雅子妃の登場は高度に発達したカラーテレビの時代だから、彼女は世代にかかわらず色彩像で評価されることだろう。


 ギリシャのパルテノンやローマの神殿は、外国へ行けなかった建築学科の学生のころから何度白黒写真で眺めてきたことか。これほどモノクロにふさわしい建築はないとすら思っていたが、最近出回っているカラー映像だと、石灰岩の柱の黄色みが強くイメージをこわされる。最新の映画「トロイ」の大画面・大音響の完全色彩版によると、紀元前のトロイの町もいやに黄色い。考証的にはそれで正しいのだろうが、ぼくらの世代にいわせれば、紀元前の世界の音や色の細部が拡大鏡で見るように鮮明なのはどうも不自然だ。


 最後に, カラーが逆に白黒化するときの矛盾の例を一つ。子どものころ、何度か相撲に連れていってもらったもので、ぼくは双葉山の背中の色を知っている。後年相撲に興味をなくしたのが白黒テレビの時代で、そのころ相撲取りが象のように見えるのに閉口した。あれだけの巨体から色彩を取ってしまうのは不自然すぎる、とぼくは思う。


 20世紀は時代がすすめばすすむほど色彩化がすすんだ。大雑把にいって、20世紀の前半に生を受け大都会で育った世代は、白黒の原点からはじまって、その後の白黒カラー共存時代、カラー優位時代への推移をパースペクティブに眺められる希有な世代だ。歴史の断片がどの程度にカラー化されているかにより、その発生年代を当てることのできる世代だといってもよい。大げさにいえば、色彩でもって歴史認識が可能な世代でさえある。


雑誌「Interest」  第2号2004年秋