街並の色彩

乾 正雄



中世の街並は美しい


 長年、都市景観を研究してきてたどりついた結論の一つは、日本といわずヨーロッパといわず、中世の町は美しいということである。これはあまりに単純な言い様だと思われるかもしれない。これからの住まいを考える本誌のような場では、何の役にも立たない後ろ向きの空念仏だと受け取られるかもしれない。だが、この主張そのものの理解者はきっと少なくないと思う。


 人類のつくった町が古代に美しかったかどうかはよくわからないが、建材もろくにそろわなかったほどの大昔、街並が整っていたとはちょっと考えにくい。中世になって、屋根工法が発達し、石や木の使い方があかぬけてくると、個々の建物の様式が確立し、ひいては整然とした街並が出現したと見るべきであろう。そのとき町は、色彩的に見ても、十分に秩序のある配色をもったものとして現れたにちがいない。


 たとえば、今井、金沢、倉敷、萩、シエナ、ヘント、ディジョン、ベルンなどに残る中世の街並を思い浮かべれば、右のような情景は目の前に彷彿とするであろう。いや挙例はかえって誤解を招きそうだ。ほかのどこでもよい、繁栄した当時のすべての街並は同程度に整っていたという方が事実に近かろう。


 しかしながら、長い中世が終わり、都市の近代化、現代化がはじまると、街の姿かたちはくずれる。西欧では、まず様式の混乱がおこった。一九世紀末のウィーンのリングシュトラーセの建設がいい例だろうが、そこに並んだのはギリシャ、ゴシック、ルネッサンス、バロックなど −正確を期すならすべてに「ネオ (新) 」という接頭語をつけるべきだが− の諸様式の併存だった。「リング様式」と戯称されるが、どう見ても本物ではない。同じ頃、産業革命を経てビジネスの一大中心地となったロンドンでは、近代化一歩手前の、やはり様式的にはさまざまなビル群が立ち並んだ。ほどなく、それらはもはや様式云々とは無縁の、鉄とガラスとコンクリートから成る近代ビルと化す。


 日本には、明治維新以後、ヨーロッパ諸国の建物が堰を切ったように流れ込んだ。第二次大戦後はとりわけアメリカ仕込みの巨大ビルが増えている。現代の大抵の日本人はいまさらビルを西洋産とは見ないだろうが、ビルの出自を問えば、うたがいなく西洋産であることは、洋服の西洋産と同じくらい確かなことだ。そして、中世の町は、ヨーロッパでは建物の歴史の連続性の故に今でもれっきとした市民権をもっているのに対して、日本では和服が洋服に追いやられたのに似て、かぎられた地点に見本市のごとく残っているにすぎない。


 洋の東西を問わず、現代都市を一般的に美しいなどと見る人はまずいないであろう。現代の街並のひどさは、都市の美的統一原理の欠如、性格不明の建材の過剰、ビルの大き過ぎ、広告や看板の多すぎ、などによって説明されるだろうが、これらのどの要因にもかかわっているのが色彩の混乱である。色彩の混乱は昨日も今日も刻々とすすんでいる。混乱が少なくなる可能性は少ない。


 もしかしたら人類は中世にしか美しい町をもちえなかったし、今後も未来永劫、美しい町など二度ともちえないのかもしれない。




似た配色が集中して見える図柄は調和である

 中世の街並から抽出できる色彩調和の法則は何かと考えてみると、「似た配色が集中して見える図柄は調和に属する」という法則が立てられる。


 日本の真壁造やヨーロッパのハーフティンバードハウスの並ぶ街並はこれに当てはまる。これらが何故調和なのかを既存の色彩調和論で説明すれば、白壁と木骨との明度が対比、屋根が銀ねず瓦のときは白壁と色相が類似、赤茶の瓦のときは木骨と色相が類似、そのような住宅がたくさん並ぶのは規則性、などから調和だといえるが、そう改まって説明するまでもない。


 自然界では、動植鉱物とも、地域によって似たものが集中している。人間では、かつは黄色人種、白色人種、黒色人種がきれいに棲み分けていた。白人の髪の色も、かつては棲み分けができていたはずである。哺乳類でも昆虫でも、これらは今も、同種のものが一地域に集まっている。植物は、今はかなり人間の手が入ったが、かつては同じ樹種が集まって森をつくり、同じ花が一つところに咲き乱れていた。相似た配色対象が集まっているのが本来の自然であり、人工物はそのあり方を模倣するのがもっとも自然なのだ。


 図1 はハーフティンバードハウスがたくさんそろっていることで知られるドイツ中部の小さな町、ハンミュンデンの中心広場である。これがよく整った街並であることは明らかであろう。ていねいに見ると、個々の建物は正確に同じではない。屋根の形といい、軒の高さといい、ファサードのデザインといい、それぞれが好き勝手だ。しかし、少しずつちがうのが自然なのであって、精密に計算したようにそろってはかえっていけない。そして、各部の色彩は自然に多い、暖色か無彩色から成る。青や紫は自然には極度に少ない。ハーフティンバードハウスで有名な観光都市には、ストラスブルク、チェスター、ローテンブルクなどがあるが、調査のためなら、より小さいハンミュンデンとかシュヴェービッシュハルとかがおすすめだ。 (中略)


図1 Han Muenden





一色の印象を与える図柄は調和である


 同一色の大壁造の家が並ぶ西洋風の街並は、一色の印象を与える。それはファサードが石であろうと漆喰であろうとちがわない。日本家屋ではそういう例は少ないが、明治時代の日本橋や川越で流行った銀ねず瓦黒壁土蔵造りの建物は一色の印象を与える。今一つの色彩調和の法則として、「一色の印象を与える図柄は調和に属する」という法則を立てなくてはならない。


 ある派の色彩調和論では、図柄内のすべての色を混色したとき、白、黒、グレイなどの無彩色になる配色は調和であるとしている。しかし、われわれの経験によれば、混色の結果は必ずしも無彩色にならなくてもよい、黄色でも茶色でも何か一色の印象を与えれば調和を感じさせるといってよい。


 雪景色のきれいさはそれであろう。雪の白のなかには、木の幹や枝や小道が黒く見える。もしそれが紅葉時の初雪だったら, 黄葉や紅葉も混ざって見える。しかし、印象としては白一色である。ちょうどモンドリアンの抽象絵画の配色だ。あるいは緑の木々のきれいさ。前景に緑の庭園、背景に緑の林があって、中央の一軒の別荘にも緑の蔦が這っている。印象は緑一色。クリムトの「アッター湖畔の別荘」の色使いを思い出す。これらは、自然に存在する色彩現象にほかならない。


 図2 はライン川上流に沿ったスイスの小さな町、シュタインアムラインの定評のある一並びの家々である。各戸のファサードはさまざまな壁画で覆われていて、そこに統一があるとはとても見えない。色相もさまざまだ。けれども顔料の制約のせいで、全体にソースをかけたような茶色一色の印象がある。


 アルプス周辺の町や村には、よくこんな壁画だらけの通りがある。もちろん無地のファサードのつづく街路もあり、そこでは一色の印象はもっと強い。石造の街路ではベルンの砂岩の茶、ヌーシャテルの石灰岩の黄、クレルモンフェランの花崗岩の黒などが有名だが、漆喰の街並ではバーゼルの白が厳重に保存されている例である。 (中略)


図2 Stein am Rhein






中世の模倣の可能性


 中世の町から二つの色彩調和の法則を抽出したが、このような技法は、意識してか無意識でかは別にして、もっと大規模な開発のなかでも使われている。一七世紀のロンドン大火以来の、ロンドンで最大の大開発といわれるドックランズには、中世とはいかないが、その流れを汲んだ近世の、実力のある建築が少なからず保存されているので、一大国際金融センターを担う摩天楼やオフィスやアパートなど大量の新建築群も、それら過去の建築遺産を無視できない。


 その際、新旧建物のコントラストを鮮明に効かすのは、ポストモダン時代このかた、一つの技法として定着しているが、既述の、似た配色が集中して見えることや、一色の印象を与えることなどの法則の実例も、随所に発見される。紙数がないので具体的に述べる余裕はないが、なかにはこれはと思われる好例もある。おそらくは古い建物が残っていることがヒントになって、新建築のデザインにもよい影響が現れた結果のようだ。


 同じようでも、ドックランズでなく東京湾岸の開発だと、色彩設計のよりどころとなる過去の遺産が皆無なので、色彩をコンピューター画面で探すかのように自由に選ぶことができる。制約がなくなる代わりに過去とのつながりもない、相変わらず日本らしい開発がすすんでいる。