照明が彩るスローライフ

乾 正雄


 イギリスにはじまった産業革命以後の技術製品類は、それらの性能が従来品とは比べ物にならないほどすぐれていただけでなく、おどろおどろしさ、仰山さ、いかめしさなどのどこから見ても迫力満点だった。

 乗物は典型的である。馬車と帆船しかなかった世界に、まず蒸気機関車の牽引する鉄道が引かれ、以後百年そこそこのあいだに、自動車、汽船、電車、プロペラ機、ジェット機などがすべてそろってしまったのである。とくにイギリスを世界最初の鉄道王国たらしめた蒸気機関車の派手なピストンの動き、もくもくと上がる黒煙、すさまじい轟音などに感激したSLファンは今でもごまんといる。
 しかし、本稿のテーマ、照明はそれらとはまったく異なる歴史を歩んだ。

 照明は中世を通じて、東西を通じて、ロウソクか油の灯心に火を点けて燃やすものだっ た。燃料はできるかぎりゆっくり消費するのが勘所で、だれも油をたくさん使って明るくしようなどとはしなかった。馬車は早く走れなかったから遅かったのだが、照明の薄暗さは合目的的だった。照明ではスローが信条だった。

 オイルランプと、それに次ぐガス灯は、どちらも産業革命の成果物だが、じつは当初は現代人には信じられないほど薄暗かった。百年近く遅れて、電球の発明者スワンがはじめて炭素フィラメント・ランプを点灯して見せたときも、人々は「なんだ、ガス灯より暗いじゃないか」と思った程度だった。マントル(トリウム塩とセリウム塩を染み込ませた網状の綿)が発明されてガス灯がぐんと明るくなったのは電球の発明後だ。しかし、その光色は幽霊の出そうな緑白味を帯びたので、そのころ金持ちの贅沢としてロウソクが復活したという。照明のスローぶりをよく示す話である。

 電球の覇権が成ったのは、二〇世紀もすすみ、フィラメントに高温で溶けないタングステンが使われて、電球が真に明るくなってからである。だが明るさも大事だけれど、タングステンがあまりぎらぎらと輝くと、炎らしさがなくなってしまう。で、曇りガラスの登場となった。このように照明が非人間的に進歩すると必ずブレーキがかかるのである。

 照明器具ではデザインもめったに変わらない。オイルランプとガス灯の見かけはふつう外面からは区別できない。ガス灯と電灯照明器具がまた往々よく似ている。ガス灯は「最後の燃焼性光源」といわれ、そのあとを受けた電気照明は、もはやものを燃やす歴史からは訣別したはずだ。ところが、電灯の器具デザインは、ガス灯はおろか、オイルランプとも区別がつかないことがある。時によると笠が炎を模した形をしていることさえある。

 ヨーロッパ人たちはロウソク型電球も大好きだ。球はワット数を落としてロウソクそっ くりにつくってある。簡単に考えれば百ワットの電球一つで間に合わす代わりに、部屋のあちこちに、たとえば十二ワットのロウソク型電球を八個点ける。ワット数の合計はほぼ等しいのに、部屋の印象は薄暗く,スローになる。

 大戦後は蛍光灯の時代がきた。蛍光灯は、明るいこと、白いこと、大面積の光源がつくれることの三点で画期的だった。光に飢えていた日本人は、空腹時のご飯にありついたかのごとく蛍光灯に飛びついた。西洋でもオフィスビルや工場ではまず文句なく蛍光灯が使われた。しかしながら、またしてもそれの西欧住宅への普及にはブレーキがかかった。

 蛍光灯は炎らしさに無縁だから、リビングルームに不可欠な温もりがない。いくら省エネになると聞いても、ヨーロッパ人の多数派は本能的に蛍光灯を嫌ったのである。そのころ、高度経済成長期の終わりごろだったろうか、日本の「マンション」や住宅でも、蛍光灯は安っぽい、「豪邸」の居間なら電球でなくちゃあ、という風潮が広がってきた。そうした状況に合わせて、その後、蛍光灯が、長い棒を丸め込み、蛍光物質を改良して、一見、電球とちがわないものに変わったことはみなが知っている。こうしてコンパクト型オレンジ光蛍光灯はついに西欧の家庭で受け入れられたし、日本でも歓迎にやぶさかでなかった。かくて蛍光灯も、コンパクト化し、オレンジ光化し、電球とそっくりの見かけになり、さらにいえばロウソクに連なる照明の歴史の線上に乗ることができた結果、市民権を得た、とこういってまちがいはなさそうだ。

 北海道の風土はイギリスに似ているといわれる。いそがしい日本で照明のスロー性が生き、照明を中心としたスローライフが根づくとしたらここだ、と私は思う。


北海道新聞(夕刊)2006年6月14日