照明の先祖返り
夜になると暗い欧州


乾 正雄



カント哲学を生んだ静寂と暗さ


 10数年前のことだが、カントに惹かれてケーニヒスベルクへ旅したことがある。若い読者の99パーセントは聞いたこともない地名だと思うだろう。第二外国語でドイツ語を取った人は何やらドイツっぽい音だと気がつくはずだが、それにしてもドイツにそんな都市は無いと投げ出すだろう。しかし、哲学者イマニュエル・カントの名前がうまくケーニヒスベルクに結びつく人なら、カントがその町に一生住み続け、夕方一定の時刻に一定のコースを散歩したという話を、それを見た町の人が時計を合わせたという有名な言い伝えとともに思い出すにちがいない。

 ケーニヒスベルクは現在の名前はカリーニングラード、ソ連の軍港があったころは立ち入り禁止だった。今はロシア領、入国も可能になり、私は川に浮かんでいるホテル船にひっそりと滞在した。しかし、戦争の被害は予想以上に大きく、カントが晩年に買って住んだ家は影も形もなかった。昼間は見るものもない。しかし夜、船内から、静寂と漆黒の川面のかなたに、かすかに町のシルエットを眺めながらビールを飲んでいると、半ば負け惜しみだろうが、カント哲学の形成に大事だったのはこの暗さだ、うすっぺらにつくり直されたカントの家なら無くてよかった、などと思うのだった。




ドイツ独特の街並み重視様式

 19世紀までのドイツは領土を東方に延ばしていたので、しかもドイツのリューベックを盟主とするハンザ同盟がバルト海の交易権をにぎっていたので、現在のバルト3国やポーランドにはドイツ風の町々がたくさん残っている。たとえばポーランドのグダンスクは第二次大戦の勃発した現場で、被害の大きさでも右に出るものがないほどの都市だが、ドイツ製の地図には今でもドイツ名のダンチヒが使われている。復興にあたり、グダンスク当局は、いくら「他国の様式ではないか」「ドイツ風が強すぎないか」などと罵られようと、「残すべきものは残す」という考えを貫いた。ケーニヒスベルクの場合は残念ながら形を伴わない暗さが残っただけだったが、グダンスクでは昼間の都市景観、今日では世界中のほかのどんな都市も敵わないほどよく整った煉瓦積み破風スタイルのビル街が再現された。それが普仏戦争後に繁栄したドイツ独特の街並み重視様式であることも付け加えよう。



グダンスクの街並み

 

これらの町々は、東へ進むほど人口密度が低下するせいだろうが、どこへ行っても静かである。広大な平野が単調につづくので自然環境には見せ場が無い。当然、観光客は少ないが、観光客の少ないことが現状の静寂を保存する力になっている。そして夜はどこも暗い。

 グダンスクで泊まったホテルは繁華街の中心部の高層ビル内にあったが、夜、部屋の窓から下を覗くと、まるで家並みが途切れたかのような風景が真っ黒に見える。または、むしろ何も見えないというべきか。商店の光はかすかに存在するが、自動車の光は極度に少ない。




家庭の食卓も感覚的ゼロを保つ

 さらに不思議なのは、アパートの窓に明かりが灯らないことだ。勤め人ならうちへ帰っている時間だが、食事はしないのだろうか。先祖が狩猟民族だったヨーロッパ人たちは、狩りの要領で暗い場所に自分を位置づけ、窓外の多少とも明るい光のなかに浮き上がる獲物を眺めるのが好きなのだろうか。

 答えはレストランを探しに外へ出たときにわかった。「中世以来」と宣伝しているレストランが一つの町に一つならずある。中世料理は肉を焼いたのが一皿、豆などは火を通してあるが、緑色の葉っぱは取ったまま積んであるだけの野菜の盛り合わせがもう一皿、あまりうまいとは思えないが、素朴この上ない。それらをゆっくりとロウソクの明かりだけで食べる。そう、店内の暗いことが大事なのである。階段の昇降が危険を感じるほどに真っ暗なのはほめられないが、こんな、最低限に加工された料理の味覚を味わうには、味覚を鋭敏に保つため、味覚以外の感覚はほとんど働きようのないほどの室内環境が求められる。光も音も感覚的ゼロ −光なら見えるか見えないか程度、音なら聞こえるか聞こえないか程度− にぎりぎり近くてよいのである。

 家庭の食卓の照明もどうやらこれに通じるようだ。日本だって、江戸時代の小料理屋や下級武士の家庭は十分に暗かったはずだろう。照明の先祖返り、それはエネルギー消費大国になった現在の日本でも時宜にかなう。


掲載紙  聖教新聞2009年3月12日