街の色を考えるには歴史認識が大事

乾 正雄



 街の色の話をするのに「歴史認識」とは大げさなようだが、この言葉はこのごろメディアをよくにぎわす。ただ靖
国論争だと意見は割れ溝は決して埋まらないが、街の色の歴史認識は、歴史の感じ方程度の意味だから、格別むずかしいことにはならないであろう。


 話は簡単である。小さな町村にしろ、大都市にしろ、それらには控えめに見ても何百年の歴史がある。景観論が流行ったからといって、色のセンスだけを頼りにして街の建物や看板に塗り絵のように彩色してはいけない。一人のデザイナーの一生よりもはるかに長期間存在しつづけている街に色をつけるのは、敬意をもってその街を観察し、その街の由って来るところを洞察し、歴史を十分に感じ取ってからにしてほしい。


 私の挙げたい好例は、スイス第二の都市、ライン川沿いのバーゼルに残る中世の旧市街である。そこで中心となるのは木骨または石造家屋だが、概して漆喰が目立つ。その漆喰が市条例によって白か淡いクリーム色かに限られている。当初の漆喰の色がどんなだったかは正確にはわからない。調べても調べきれるものではない。ただ、常識的に考えて白か白に準じる色が優勢だったろうとは想像される。バーゼルには1356年の地震以前の街並を描いた最古の絵のコピーが現存するが、それによると漆喰らしき壁はすべて白だ。白い壁を採りつづけるのはバーゼル市とバーゼル市民に共通の歴史認識にほかならない。


 しかし、バーゼルにおけるように白い壁にこだわる街は、今日のヨーロッパでは少数派に属する。アルプスを取り囲む村々では、16世紀ごろから、漆喰壁に絵を描いたり、比較的強い色でドアの縁取りをしたり、柱型や梁型をはっきり見せたりなどのカラー化がすすんだ。さらに20世紀に入ると、コンクリート、鉄骨、ガラスなどの目立つ近代建築が出現し、併せて発達した塗料化学工業がそれに似合う原色の使用を可能にしたので、中世家屋の大面積の漆喰も原色のおこぼれにあずかった。私はそういう変転した歴史も、歴史を感じさせてくれるものであるかぎり正当なものと認める。


 以上に対して、20世紀後半以後現代もなおすすんでいるカラー化には、私は疑問をもつ。現代のカラー化では、高価の故に権力者しか色彩を使えなかった中世と比べても、色彩をけちけち使いながら粒々辛苦してカラー化を成し遂げた近世と比べても、色彩と戯れる安手のデザインばかりが目立ち、正当性が感じられない。


 中世ドイツの画家デューラーのアトリエを訪ねると、大きな貝殻の皿に油で溶いた希少顔料、ラビス・ラズリのウルトラマリン、蘇芳(すおう)の赤紫、紫貝の淡い紫などが大事そうに展示されている。デューラーほどの大家にして、青や紫はここぞというときにのみ使う。建物などにはもったいなくて使えなかった。ところが、現代のデザイナーはあらん限りのすべての色を常用する。パソコンだと、どんな色でもたちどころに画面一杯に出し、次の瞬間消すこともできる。お望みなら最高度にカラフルなマンダラを見せることもできる。それでお金はかからない。パソコン育ちの現代デザイナーが、街並に合おうと合うまいとゲーム感覚ですべての色を使う習性をもつのに不思議はないだろう。


 最近ではヨーロッパの名だたる中世都市にもこの弊害が及んでいる。若いころ訪ねて人並みに感激した町を再訪すると、積み木の色数を増やしたような色彩過多が生じていることに気がつく。


 日本国内の街の例を挙げる余裕がなくなったが、要は歴史の感じられない街並は空しい。日本の場合も中世の保存されている街はもちろん歴史的でいいが、それほど古くなくても大正や昭和初期の街には、白、黒、銀鼠(ぎんねず)、木肌色などを中心とし、わずかな朱色が加わった色の文化があり、それだけで歴史を感じさせた。しかし、現代の色彩過多の街の歴史認識はもはや不可能である。

2006年9月
COLOR, 日本色彩研究所 No.146