私が中学生だったころ

物理的暗さと時代の暗さ

乾 正雄


 小学校五年のとき戦争が終わった世代なので、私は、灯火管制も、集団疎開も、そして空襲による東京の家の全焼で田舎に避難した家族に引き取られることまで経験した。だから、町の灯の暗さや山奥の村の真の闇などの物理的暗さも知っていれば、当時のだれもがいう時代の暗さ、つまり比喩的な暗さも知りすぎるほど知っている。

 母が集団疎開先に迎えにきたとき、そこに馴れきっていた私は最初、転校はいやだといった。しかし、母は心をきめていて、「そういうけどお前、うちへ来れば卵が食べられるよ」と説いた。それで私の考えは一も二もなく変わってしまった。ひもじい生活だったのである。

 戦後、うちは東京へもどる代わりに浦和市に移り住んだので、私も中学校をそこで過ごした。明るさがもどりつつある時代だったが、なにぶん敗戦の打撃は大きい。食べ物は戦中の田舎よりさらに乏しかった。母について近郊の農家を行き当たりばったりに訪ね、米やさつまいもを売ってもらった。子どもも多分荷物運びのためにかり出されたのだろう。母のものもらいのような口調を聞くのはいやだったが、親も子もメンツどころではなかった。姉の友達に裕福な育ちの人がいて、その家では毎朝卵を食べるんだってさ、と聞いて仰天したこともある。

 しかし、時代が確実に一変した証拠に、中学三年ごろから、姉と一緒に東京都心の映画館へ洋画のロードショーを追って通いだした。そのころになるともう食べ物の記憶はない。日本の復興は急速で、ちょっとのあいだに、食い物に事欠いた家の子が毎週高い映画を見に行けるようになるほどの変化がおこったのだ。蛍光灯の普及は先のことで、町はまだ薄暗かったが、人心はもう明るかった。