理科系の国語学力

乾 正雄


 理科系の学者のはしくれとして、私自身の国語学力などたかが知れているとまずいわねばなるまい。たいていの理系人間がそうだろうが、若いころは国語は理科ほどは成績が上がらなかった。ただ、数学や物理とちがって、国語は年をとるとむしろできるようになる(ように思える)。若いときは短い論文しか書かなかった人でも、ある年齢以後は、著書から論文審査報告、学生の推薦書、はては自慢話や追悼文にいたるまで、文章を書く機会は増える。一方で人の書いたものを読む機会も増える。年をとるほどに国語力を頻繁に使うようになる点は、会社勤めの理系人間にとっても同様だろう。問題は、その時期になっても、依然として読むもの書くものとも質が低いことだ。できるようになったとはいえ、低いレベルの話であることに変わりはない。


 なぜ理科系の国語学力は低いのか。理系の人はせまい専門分野のなかに、さらにせまい自らの研究対象をもっており、事実(真理といってもいい)は一つしかないと考えている。そこを他人が文章でどんなにうまく表現しようと興味をもてないし、自分の文章に趣向をこらそうともしない。事実は信じるが、その事実の価値は文章の巧拙に左右されないというわけだ。そういう考え方が肥大化すれば、国語にも文章にも縁遠い人間ができあがる、と私は思う。


 科学随筆で知られる寺田寅彦のような人は例外である。文章がうまいから例外だという意味ではなく、一つしかない事実を信じないで、あれかこれかと書きすすめる資質をもっているところが例外だと思う。寅彦の随筆には、大学入学以前のものがいくつかあり、それらがとくに文学的な内容をもつあたり、彼は生まれながらの理系人間ではなかったという方が正しいだろう。


 確実な事実から離れることで、文章ははじめて生き生きとしてくる。そのことに理科系は晩年になってやっと気づく。しかし、文章改革に取り組もうとするとき決定的なマイナス要因になるのは、成長期以来の質のいい読書の欠如だ。読書は想像以上に年季のかかるものであり、急には手の打ちようがない。