IAPS創設のころ

乾 正雄


きっかけ

 1979年7月上旬、西ベルリンの照明工学研究所では、クロッホマン教授の主催で「窓と採光」に関するシンポジウムが開かれていた。会場内には当時ベルリン留学中の私もいたが、私は初対面の環境心理学者、リカルド・キューラー(ルンド大学スウェーデン)を探していた。どうして見つけたかはまったく覚えていない。体の大きさで目立つ人だったがそれを知ったのも後の話、しかし私は「キューラーから書状Working session of the provisional committee concerning proposed Association of Environmental Psychologyを手渡された」と日記に書いている。日記がなかったらお手上げなほどの古い話なのだ。




第一回準備会

 かくて、環境心理学会創設準備会は予定通り同年秋の9月26日、ロンドンのグロブナー・ホテルの一室で開催された。出席者はRikard Kuller(uにはドイツ語風のウムラウトがつくが、近年は正式非正式にかかわらず彼の場合は省かれるのが普通), David Canter, Dimitris Fatouros(ギリシャの建築家), Griffiths, Inui, キングストンからのセクレタリー(スー・アン・リーか?),デルフトの建築家(プラクか?),デルフト出で在スコットランドの女性建築家,おくれてきたイギリスの建築家(よくしゃべる),最後が会議の終わる直前にやっと到着した 大遅刻のHartmut Espe(ベルリンの心理学者)だった。

 会議名称については、頃合いを観てKuller が立ち上がり、黒板にさらさらとInternational Association for the Study of People and Their Physical Surroundingsと書いたら反論はなくすぐきまった。略すときはIAPSとすることも、この日にきまった。当分の間チェアマンはKuller, セクレタリーはCanterと人事もきまった。この辺は根回しができていたようだ。




第二回準備会

 もう一回、ベルギーのルーヴァンに集まることになった。今度は私はベルリンから片道12時間半の列車旅行を試みた。ルクセンブルクやベルギーの谷間の美しさは知ってはいたが見飽きることがなかった。1981年3月27日、ホストは初対面のSimon, 他の出席者はKuller, Canter, セクレタリー(と書いてあるが多分Simonの友人だろう),Fatouros, Inui, Prak, Sue-Ann Lee, Symesだった。Symesは「会ったことがない」といってイギリス人にはめずらしく未知の日本人に向かって話しかけてきた。

 最初の大会予定地は優先順位の上位から、@バルセロナ、Aハイファ、Bベルリン、期日は1982年7月となった。現在の理事は上記出席者たちだが、来年の大会を目指して選挙される。私など無名のはずだが、結果的に当選したのはやはりだれかの根回しの効果だったのだろう。

 Symesが, 終わり近くになって長話をはじめ、会議名称が長くて回りくどいことなどを述べたが、彼は過去の経緯を知っていたはずで、一言念を押しただけに見えた。この日の空気ではフランス語の力が強く、この機会に公用語を英、仏二カ国にする話もちょこっと出たが、英語が情報時代の代表的言語である限り、フランス語圏に迎合する英仏二カ国語案にはあまり意味がないと思う。私は反対した。英仏独三カ国語に堪能なPrakが応援してくれた。




その後

 IAPSは1970年代はじめから現存していたことは知る人が多いであろう。ただ、会議の正当性、それが真に環境心理学を代表する国際組織であるかどうかという問題、それとEDRAやMERAなどとの関係性の問題など、所帯が大きくなれば根本的議論はしっかりしておくほうがよい。その意味でIAPSには苦労があったのである。しかし、過去は大きく見えるほうがよいので、確定した第1回大会は、以前のIAPSを積み増して、第8回と称することになった。

 あまりIAPSの名誉にならないことを今一つ付け加えなくてはならない。第一回準備会では、私の理解するかぎり、略号IAPSを主に使うが、正式名称International Association for the Study of People and Their Physical Surroundings も残ったとみた。しかし、正確にいつからかはわからないが、遅くとも1980年代前半には、この長い英語はInternational Association for People-Environment Studiesと代わっている。この場合IAPSのうちのPはPeople-Environmentしかないから誤解はおこりえないというのだろうが、私はこれを変だと思う。

 最後になったが、少し前にKullerの訃報を聞いた。まだ年というほどではないのに残念である。1984年のベルリン大会時には 偶然ながらKuller家と乾家は家族全員が集合した。特にKullerはお母さん連れですらあった。「二度とない」機会だった。


MERA Journal=人間・環境学会誌 15(2) 2012年12月