ヨーロッパの街並みにおけるファサードの存在価値

乾 正雄

2007年11月京都で開催の日本建築学会シンポジウム「建築空間の色・素材・質感」より



北西ヨーロッパが問題だ


 日本が西欧化、近代化または工業化をスタートさせたのは明治維新である。日本歴史の特異な点だが、当時の日本にかぎり、西欧化、近代化、工業化の三語はほぼ同義だった。ヨーロッパの文化・文明は、古くはまずギリシャ、次いでローマにはじまるとするのが常識だが、明治時代のヨーロッパの強国は北西方に集中し、第一にイギリス、第二にドイツ、第三にフランスといったところだったから、これら三国の文明が、この順序に日本に強い影響力をもたらした。

 もちろん、それ以前の日本の伝統的街並みに他国の影響が皆無だったとはいえない。中国の影響はとくに大きく、それは社寺に関しては明らかであったが、商店や住宅などの連なる街並みでは出自がどこの国かわからない程度に確固とした和風が明治時代以前に完成していた。

 そこへヨーロッパ産の建築物がどっと輸入される。それは18世紀末の産業革命以後の新しいビルだから、ロンドンでも、それ自身様式が定まらず、中世のより小さいビルとも様式が合わず、往々、街のなかで浮き上がっていた。ましてそれは、日本の街ではよくもわるくもはっきり異物でしかなかった。これが日本における西欧化のはじまりである。

 しかしながら、今や明治維新から100 年以上が過ぎ、昔の街を知る日本人がいなくなるとともに、大都市ではかつて多数派を占めていた和風建築が消失した。その時間経過を知らない若い世代は、大都市のビルを和風でもない、洋風でもない無国籍ビルと思っているだろう。同じものを、私など旧世代はヨーロッパ産と信じてゆずらない。たいへんな歴史認識の隔たりだ。



ヨーロッパと日本のファサード観のちがい

 ヨーロッパでは、中世に建築物の様式が定まり、同一様式の建築が街路に並ぶことによって、街の見かけが一つの完成に達した。木骨と漆喰壁からなる住宅ばかりが集中する通りや、黄色い石灰岩で囲まれた職住兼用ビルが形づくる大通りなどは代表的であろう。

 一方、日本でも、少しおくれて江戸時代には住宅の様式がきまり、武家屋敷街、下町の住居を兼ねた商店街などに代表される街並みが出来上がっていた。

 ヨーロッパと日本の街並みのちがいはファサードに対する考え方のちがいに起因する。俗に、ヨーロッパの建築は街路に切妻側 (破風) を見せ、日本建築は街路に棟側 (長手方向) を向けるという。多数がそうなっているという意味なら確かにそうである。 しかし、たとえばベルンの旧市街は棟側を大通りに向けている。ザルツブルクの建築はアルプス特有の鋸屋根を隠しているので、外見上、切妻側と棟側の区別がつかなくなっている。逆に、日本の白川郷では、道路とは無関係に、個々の住宅が切妻側から見られるように配置されている。

 こんな例もある。シュヴァルツヴァルトにある小さな湯治場フロイデンシュタットには正方形の広大な市場広場がある。第二次大戦前は広場に面する家々はすべて破風を広場に向けるように統一されていた。ところが、ここはフランスに近く、フランス軍に侵攻されて地上戦があったほどの町だ。被害は甚大だった。戦後の懸賞設計で採用された設計は、思い切って伝統に反する、広場に棟側を向けた案だった。そうなった理由は、第一に、戦前の建物群が原型をとどめていないが故に、戦後の経済的窮乏がより安価な案を選ばせたこと、第二に、戦前の建物群の歴史的価値のやや低い評価が上の変更をスムーズにさせたこと、第三に、シュトゥッツガルトを中心とするこの州はドイツでも進取の気性に富んでいたこと、などがあろう。

 ヨーロッパのファサードでは正面性、中心対称性、装飾性などが、日本とは対照的に重視される。もともと日本にはファサードに対応する言葉がない。ヨーロッパ流は、切妻側が街路に向いているのは望ましい、しかしファサードの存在意義が達成されるかぎり、必ずしも切妻側が街路に向いていなくてもよい、と考えているようだ。以下には、二つの事例をやや詳細に取り上げる。



クイーン・アン様式

 クイーン・アン様式は、19世紀第4 四半期の、ちょうどヴィクトリア時代の終わりごろ、イギリスで流行したビル様式である。赤煉瓦の壁には白い石が主として横線を強調するようにはめこまれる一方、屋根には塔やドームがにぎやかにおかれるという派手なものだった。

 クイーン・アン様式のビルは、ロンドンのシティをはじめ、大陸のハンザ都市にも相当数あるが、私の知るかぎり現在広範囲にまとまって残存する実例はない。そのクイーン・アン様式のビルが明治の丸の内で大量に建設されたことがある。当時の丸の内は未開発で、宮城に近い重要な土地ではあったものの、まだ東京駅もなく、ビジネスの中心は兜町にあった。政府の払い下げに乗った三菱社は、ここに日本を代表するビル街を創ろうとした。

 景観的に早くから整った馬場先通りを、当初未着手の東京駅側 (東側) から眺めると(
図1)、北側の最初のブロックには、工部大学校教授として来日していたイギリス人コンドルによる三菱1 号館が明治27(1894)年に竣工した。次のブロックは4 号館 (設計はコンドルの弟子の曾禰達蔵1904年) 、次は 5号館 (曾禰達蔵1905年) 、最後は、2 号館 (コンドルと曾禰達蔵の共作1895年) がくる。以上の四つがそろった直後の馬場先通りの写真があるが、「一丁倫敦」というあだ名は当たっていよう。ただし電信柱と電線と泥道のある背景は画竜点睛を欠く。ここはほどなく舗装され、路面電車が走るようになった。





図1 丸の内の「一丁倫敦」

 

 馬場先通りの南側には、同じく東京駅側から見て、手前から三菱3 号館 (曾禰達蔵1896年) 、12号館 (保岡勝也1907年) 、13号館 (保岡勝也1911年) 、東京商業会議所 (妻木頼黄1899年) が並んだ。真ん中の二つ、三菱12号館と13号館は明治末年のものである。以上のうち、歴史的意義の大きさはコンドルの1 号館に帰せられようし、名建築の誉れが高いのは妻木の東京商業会議所だが、そういう各論よりは、コンドルの弟子たちが、一つの様式に執着して、この街路のすべてのビルを軒高をそろえたクイーン・アン様式で統一した快挙をいうべきであろう。

 わずかにおくれて、大正3(1914) 年、同じくコンドルの弟子で教授のポストを引き継いだ辰野金吾の設計による東京駅が開業した。東京駅は西洋風の終着駅とはちがい通過型中央駅だったから、クイーン・アン様式の横長の線が引き立ち、「一丁倫敦」とよく釣り合った。ただし、東京駅の原型がアムステルダム駅といわれるのは正しくない。通過型中央駅をクイーン・アンでデザインすれば雰囲気は今程度には似るであろう。ここでは、どちらでもないグダンスク本駅を挙げておく (
図2)。東京駅の完成によって丸の内の景観はきわめてよく統一された。





図2 グダンスク本駅


 
 第二次大戦の空爆による「一丁倫敦」の被害は軽微だった。しかしながら、戦後のビル需要の増大は三菱地所社自身に、古いビルの取り壊しと容量の大きい新ビルの建設を推し進めさせた。その結果1960年代初頭から再び丸の内は工事現場と化し、10年後にはすっかり姿を変えた。 (本節の記述は『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史』(1993 年) に負うところが多い。)



「立ち上がり壁」つき破風


 ヨーロッパ中世の繁栄に大きな役割を担ったのは、大陸の北岸を結ぶ通商ルートを守るために結束した、リューベックを盟主とするハンザ諸都市、たとえば西から並べると、ロンドン、ブルッヘ、ヘント、アムステルダム、ハンブルク、リューネブルク、ロストック、ダンチヒ (現グダンスク) 、ケーニヒスベルク (現カリーニングラード) 、リガ、タリンなどである。ハンザは拘束のゆるい同盟なので、ここでは恣意的に本稿の文脈に関係の深い都市名を挙げた。

 これらの都市にはギルドハウスがたくさんあるが、ギルドハウスにかぎらず、商人の住居も、破風側を街路に向けた背の高い建築で、破風の最上階部分からクレーン様の腕が突き出、商品の上げ下げができる。この種の建築がもっともよく残っている例の一つがタリンの旧市街である。長くソ連の管理下にあったにもかかわからず、タリン (エストニア) の保存状態は、ドイツのリューベックやロストックよりよいくらいだという。

 リガのブラックヘッドハウスは、1334年にはじまる建築で、数あるギルドハウスのうちでも装飾の豊かさで際立っている。この建物は長い間、付加や補修をくりかえして存続していたが、第二次大戦ではほとんど全壊した。それが、ごく最近の1999年、やっと再建に成功している。リガはタリンよりずっと大きな都市であり、そのためもあってか、旧市内に中世、近世、20世紀などの建築物が混在している。リガ (ラトヴィア) の保存状態もわるいとはいえない。

 ポーランドのグダンスクはドイツの東方政策に基づき、18世紀後半からダンチヒというドイツ名でドイツ領に属していた。しかし第一次大戦後ポーランドの手にもどされた。 (さらに東方のケーニヒスベルクはもっと前からドイツ領であり、哲学者のカントが一生離れることなく住みつづけたことで知られる。ケーニヒスベルクは第二次大戦後ソ連領となっている。) 第二次大戦がグダンスクからはじまった理由は、ヒットラーがダンチヒの取り返しに出たからだ。この町の被災はひどかったが、戦後の復興は、ドイツ的であろうとなかろうと、グダンスクの過去を隠さずできるだけ正確に復元するというものだった。

 グダンスクの街並みの特徴は、一重に、破風飾りのついた破風を誇示する建築物ばかりが集中的に存することにある。英語はゲーブル(破風)しかないが、日本語では「立ち上がり壁」ともいわれる。旧市街ではそのような破風の装飾が粒ぞろいで、精度のよさはヨーロッパ内屈指であろう(
図3)。その事実は、街路を歩いていても理解できるが、とくに市役所の塔のような高所から観察すると、二面の街路に接する建築に二面またはときに二面以上の破風飾りのついているのが見て取れる。遠方からだと、破風飾りが紙のように頼りなくひらひらと見えることがあり、不動の象徴である建築物として、けっして有利な見え方とはいえないと思う (図4)。




図3 グダンスクの「立ち上がり壁」





図4 上方から見た多数の「立ち上がり壁」


 ある意味で、上のような「立ち上がり壁」は、日本の昭和時代はじめに急増した看板建築に似ている。看板建築に関しては、藤森照信氏の仕事が際立つが、私の読みちがいでなければ、氏は看板建築を輸入技術ではなく日本固有の技術と見ているようである。しかし私は次のように考える。ちょうど明治時代の擬洋風で大工の棟梁が試みた和洋折衷が、建築家からは「洋風に似て非なる建築」と軽視されたように、関東大震災後の東京から発した看板建築もまた建築家からはまともに相手にされない、もう一つの擬洋風すなわち「洋風に似て非なる建築」だったのではないかと思う。

 当時の日本の建築技術の伝播傾向からいって、模倣のねらいに自信がなければ、これだけはっきりと照準が定まり、特定のパターンが大量にくりかえし建てられるとは行かなかったのではないだろうか。正面街路を意識した様式という点に着目すると、クイーン・アン様式と立ち上がり壁には明らかに共通点があることもつけ加えておきたい。(本節の看板建築に関する記述には、藤森照信・増田彰久著『看板建築 新版』三省堂(1999) を参照した。)