30年前のデイヴィド・カンター

乾 正雄


  1969年の秋、一年間の英国留学を終えて帰国してすぐのこと、エリザベス女王の切手と見慣れたイギリスの消印のある一通の手紙を受け取った。時期が時期なので知り合いからの用件かと思ったが、案に相違して未知の人からのものだった。差出人はデイヴィド・カンターという名前の心理学者、ある奨学金を得て、一年間日本へ行けそうなのだが、受け入れてもらえるかという問い合わせだった。

 私が知らなかったのも道理で、添付された履歴書によると彼は1944年生まれだから、若造だった私より10歳も年下の、そのときまだ25歳だったのだ。彼のほうも、ちょっと前まで私がイギリスにいたことを知らなかった。ただ、業績調書はすばらしく立派で、すでにストラスクライド大学の講師であり、一人前の環境心理学者に見えた。ちなみに、西欧では、どの領域でも出世の早い人と遅い人の差がいちじるしいが、カンターはその後の経歴から見ても、明らかに出世の早い人に属する。だから、当時から30年も経ったのに、いまだに50代半ばのバリバリの現役で、心強いかぎりである。

 それはともかく、カンターは予定通り1970-71年の1年間日本にいた。拠点は東大の教育心理においていたが、実質的には、大久保にあった建築研究所の私たちとより親しかったのではないかと思う。週に一回はやってきた。建研には開放感の実験のため宮田紀元君がよく来ていたので、私たちはカンターと一緒に一つ二つの小さな実験もやったし、絶えずゼミまがいの情報交換も行った。彼は住まいを世田谷区池の上の外人向け貸家にかまえていた。近くは佐藤総理大臣の家があったほどの高級住宅街だが、そこを歩きながら、「なるほど日本の住宅はaustere(禁欲的)だ」と正直なことをいっていた。

 総理大臣で思い出したが、かつて、アメリカの大統領とロン、ヤスと呼び合って悦に入っていた総理がいたが、あれはどうも落ち着かないものである。イギリスにいたころは私もファーストネームによる呼称を甘受せざるをえなかったが、日本にはそういう習慣はないし、カンターと私は日本で知り合った仲である。いつのころからか、彼は「イヌイ-センセイ」、私は「カンターさん」と呼ぶようになった。

 彼は日本語の習得には成功しなかった。あるとき、「スペイン語の放送を聞いていたら、何ヵ月も勉強した日本語よりも、まったく学んだことのないスペイン語のほうがよくわかるのにがっかりした」といっていたこともある。しかし、彼は日本の環境心理学研究事情の調査には非常に熱心だった。日本中を精力的に歩きまわって、各地の研究者から直接それぞれの研究の聞き込み調査を行った。彼の日本語力と、当時のわれわれの英語力とを考慮すると、よくあれだけ調べられたものだと感心する。それは、彼の帰国後に出版された『環境心理とは何か』(デイヴィド・カンター 乾正雄編 彰国社1972年刊) の掉尾を飾った。カンター在日中のもっとも大きな仕事の一つだったろう。その本もとうの昔に絶版になっている。

(2000年9 月12日建築会館におけるカンター講演会のプログラムに寄稿 )