明治初期の街の灯りの再現

NHKの美術番組『極上美の饗宴』との協同で、小林清親の描いた明治初期の灯りを再現しました。

「幕末明治 最後の浮世絵師~芳年と清親の東京下町~」
古い江戸から新しい東京へ、激変する街の姿を、斬新な手法で活写した2人の浮世絵師がいる。上野戦争を舞台に、滅びゆく武士の美を鮮烈に描いた月岡芳年。まだ江戸の面影が残る文明開化の東京を、独特の陰影でとらえた小林清親。ともに、時代に翻弄されながらも、美を追究し続けた。2人はどのように新しい表現を生み出し、どのような思いを作品に込めたのか? “最後の浮世絵師”と呼ばれた2人の格闘を東京下町に追う。


小林清親(コバヤシキヨチカ1847~1915)は明治初期に活躍した浮世絵師で、光や影を印象的に描いた表現は光線画と呼ばれています。
その中でも夜の街の風景を幾つもテーマとして選んでいます。
江戸時代までは街は暗く、吉原などを除いて、夜の風景を描くということはほとんどありませんでした。

 
『新橋ステンション』1877年(明治10) 
現在の汐留にある初代の新橋駅。夜の雨の中、提灯と唐傘を持った人たちが慌ただしく動いている様子が描かれています。

 
 『日本橋夜』1881年(明治14)
日本橋の両側にガス灯が灯されています。当時の図面と比較すると、ガス灯がやや高く描かれていることが分かります。


明治初期の新橋や銀座の街路灯はガス灯ですが、これは現在、銀座や横浜の馬車道など各地で点灯されているマントル式のガス灯ではなく、裸火のガス灯です。その炎は魚の尻尾のように二手に広がっていることから魚尾灯とも呼ばれています。火口から火を点灯し、炎を直接明かりとして利用するものです。
明るさは16燭光(ロウソク16本分の明るさ)程度でした。
4m離れた地点の法線面照度が約1ルクスのため、路面照度の大半は1ルクスを下回ります。
この魚尾灯が現在屋外で点灯されているのは、国内では小平にある東京ガスのガスミュージアムだけです。

 
衣装を身につけ、草履を履きます。
草履を履くことによってゆったりした歩き方に変わります。

 
和蝋燭の提灯を用意しました。
提灯は竹ひごを螺旋状に巻いたものに和紙が貼られています。和紙には防水のため柿渋が塗られています。
提灯の「提」は、「手にさげて持つ」という意味であり、「提灯」とはもともと手にさげて持つ灯りのことなのです。

提灯の中央には和蝋燭が固定されています。和蝋燭は、蝋の原料が植物性で、芯が中空で和紙、イグサ、綿などをが使用されています。
私たちが普段使う洋蝋燭よりも明るく、また独特の炎のゆらぎ方をします。
和蝋燭の芯は中空の構造となっており、これが通気口となって勢いのある炎が生まれます。またこの炎が不規則に上下動するため、風がなくても揺らぐのです。


清親は、雨の降る夜の街の絵を何枚も描いています。
雨により、ガス灯や提灯の光が路面に反射して光が増幅するように見えることと、反射した光が動きゆらめく情景が印象的であったからでしょう。
また唐傘を透過した柔らかい光もあたたかく感じられます。
江戸時代には街の明かりは乏しく、日没後に人々が外に出歩くことは稀なようでした。
明治に入って、ぼんやりと暗いガス灯ながらも、人々が街を彷徨う様子を、光の情景を描くことで表そうとしています。

 

かすかに雨が降っていましたが、路面に提灯やガス灯の光をより反射する風景を再現するため、さらに路面に水を撒きました。
当時の路面は今よりも凹凸があり、光が様々な方向に反射するため、光の帯が長く伸びることになります。
『新橋ステンション』では、この光の帯が丁寧に表されています。


日没直後の18時頃より20時頃まで再現を行いました。
完全に日が沈むと、ガス灯と提灯だけの明かりになり、1ルクスを切るようになります。
およそ0.1ルクスから1ルクスの間でした。
明かりや路面は見えるのですが、人の表情や仕草はぼんやりとしか分かりません。
明所視と暗所視の間の、いわゆる「薄明視」と呼ばれる視覚の状態になります。
色味もあまり感じられなくなります。


 


裸火の炎を利用する魚尾灯。ガスを放出する火口を加工することによって扇形に炎を広げ、発光面積を大きくしています。


ここでは明るさと暗さの強烈な対比があるわけではなく、全てが薄ぼんやりと見える中で、ガス灯の裸火と和蝋燭による提灯がいずれもゆるやかに揺らめきます。



それは現在では見ることのできない奥深い夜の情景です。


ガス灯が日本で初めて本格的に設置されたのは明治5年(1872)横浜でした。東京は明治7年銀座に85基が立てられました。
その後、ガス灯は街路灯や邸宅の室内灯として広まっていきましたが、裸火のガス灯による明かりが主体だった期間はそれほど長くなりません。明治27年頃からは、白光を発生する網状の筒を用いたガスマントル式のガス灯に置き換えられるようになり、街路灯はより明るくなりました。また大正に入ると、白熱電球の発明と配電システムの普及により、電気による街路灯へと転換していきます。

このほのかな明かりに照らされた街は、ほんの数十年続いただけだったのです。